Hirofumi Yoshida - 吉田裕史

吉田裕史

吉田裕史:指揮者

東京音楽大学指揮科及び同研究科修了。ドイツ・イタリアで研鑽を積み、2007年ローマ歌劇場カラカラ浴場野外公演を指揮、2010年1月よりマントヴァ歌劇場音楽監督に就任。

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2008年12月21日 00:00

プッチーニ 1

 

ジャコモ・プッチーニ (Giacomo Antonio Domenico Michele Secondo Maria Puccini, 1858年12月22日 、ルッカ生まれ)

 

さて、今宵、コンサートの最後を飾るのは、イタリアが生んだ偉大な劇場作曲家、ジャコモ・プッチーニです。

 

今年、世界中がその生誕150周年を祝い、日本でも、最もなじみ深く、愛されているオペラ作曲家の一人ではないでしょうか。イタリア北部の街トリノで開かれた冬季オリンピックで、荒川静香さんがオペラ「トゥーランドット」からの音楽を選んで氷上を舞い見事金メダルを獲得したこと、また、日本を題材にしたオペラ「蝶々夫人」を書いているということも、日本で親しまれている理由の一つかもしれません。

 

「トゥーランドット」より "誰も寝てはならぬ"のメロディーは、一時期、携帯電話の着メロのダウンロード数が1番多かったそうです。(この話をイタリア人にすると、まずはとても驚き、そして日本でオペラという芸術がこんなにも受け入れられていることに感嘆します。)

 

さて、プッチーニの音楽の特徴は、とても親しみやすいメロディーにあると言って良いでしょう。美しく抒情的で、一度聴いたら忘れられない旋律に満ち溢れています。そして、これはあくまでも私見ですが、、歌い回しや音楽のうねり方が、とても私たち日本人好みで、"演歌"に通ずるものがあり、そのフィーリングは確実に私たちのDNAの中に組み込まれていると思います。

 

イタリアにいると、「ヨーロッパからはるか彼方にある日本で、どうしてそんなにオペラが親しまれ、愛されているの?とても不思議なのだけど・・・」という質問をよく受けます。私は、「ちっとも、不思議ではありませんよ。"カラオケ"がどの国で生まれたかご存知ですよね?そう、私たち日本人は歌が大好きなのです。もしかすると、"歌ごころ" という点においては、イタリア人よりも上かもしれませんよ。」と自信たっぷりに答えると、ほとんどの場合、(これは一本取られたという表情で)「なるほど、、そうかもしれないね。。」という答えが返ってきます。でも、さすがにイタリア人、ここで終わることは滅多にありません。最後の最後に、とても得意気に、「でも、プッチーニはイタリア人だということをお忘れなく!」と締めくくります(笑)

 

このイタリアが生んだ偉大な作曲家、ジャコモ・プッチーニは19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍しました。ヴェルディ、ワーグナーの両巨頭がオペラ作曲家としてロマン派の一時代を築き、そのあまりにも崇高、重厚となった作品群に対するアンチテーゼとして、人々は分かりやすく刺激的なヴェリズモ・オペラに熱狂していた、、そんな時代にプッチーニはイタリア・オペラ界に颯爽と登場しました。

 

18歳の時に、生まれ育った街ルッカからピサまで(21世紀の今でも、電車で30分かかります!)歩いて往復してまでヴェルディの「アイーダ」を見に行き、その圧倒的なスケール感と劇場空間をフルに使って再現されるスペクタクル・ドラマに心奪われ、生涯を捧げてオペラ作曲家になろうと決心したプッチーニ、その作風、作品を生み出す動機、そして彼の作品に対する意図は次のような彼自身の言葉から読み取ることができます。

 

 「私は、劇場のために作曲することを神に命じられた!」
 「いい台本がなくては私の音楽は役立たない・・・」
 「私は聴衆に一歩先んじるが、決して数歩は先んじない。」

 

まさに、劇場という空間をドラマで満たすためにその人生を捧げたといっても過言ではないでしょう。決して、独りよがりな自己陶酔に陥ることなく、良い意味で大衆的な、最上級のエンターテイメントを"劇場の中"で提供することをめざし続け、その目的を果したといえます。

 

さて、プッチーニが生涯に作ったオペラは、「三部作」を1曲と数えると、たった10曲しかありません。

 

① (妖精)「ヴィッリ」  1884年 ミラノ・スカラ座
一幕物オペラ作曲コンクールに応募するも、落選。ミラノでの初演はまずまずの成功で、リコルディ社に認められる。

 

② 「エドガール」  1889年 ミラノ・スカラ座
初演は、大失敗に終わり、今日では滅多に演奏されることのない作品。ストーリーに脈絡がなく、どう考えてもつじつまが合っていない。
日本初演は、指揮:吉田裕史 演出:ダリオ・ポニッスィによって行われた。

 

③ 「マノン・レスコー」  1893年 トリノ・レージョ劇場
ついに大成功をおさめる。なんと6人もの台本作家とのコラボレーションの賜物であった。この成功によって、ヴェネツィア音楽院から院長就任の依頼が来るも断る。作曲活動以外にはまったく興味がなかったようである。プッチーニはマスネが先に作曲してしまっていた「マノン」との違いを出すため、ヒロインの性格に重きをおいた「マノン」にたいして、物語性を重視する筋立てにした。そのため「マノン」では割愛されていた「植民地ルイジアナ篇」を新たに第4幕として加え、そこでの悲劇的末路を最大の見せ場に仕立て上げた。

 

④ 「ラ・ボエーム」  1896年 トリノ・レージョ劇場
とことん台本にこだわったこのオペラで、プッチーニはまたもや大成功をおさめる。今日、世界中で最も多く演奏される曲となる。例えば、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場では歴代1位の上演回数(1200回近く)を誇る。ちなみに第2位は「アイーダ」。「ラ・ボエーム」とは、「ボヘミアン」のことであり、1830年当時のパリに多くいた、みな貧しく、けれども、みな希望に胸あふれ、生き生きと過ごしていた芸術家の卵たちを指している。プッチーニも20代で故郷ルッカからミラノに出て、苦学に励んでいたことから、このオペラに特別な愛着があったと言われている。

 

⑤ 「トスカ」  1900年 ローマ・コスタンツィ劇場
半分史実に基づいたこのオペラ(このドラマは1800年6月14日に設定されている)は、ヴェリズモ的要素を持ち、プッチーニの作品の中では珍しく、"思想的"(啓蒙思想的)なテーマを扱っている。また、露骨な暴力描写、主役3人全員が舞台上で死ぬこと、そして扇情的な音楽など、当時としてはかなり刺激的であった。

 

つづく。